批評家(評論家)vs当事者

アテネオリンピックでの前半戦の日本人の大活躍ぶりはさすがの一言に尽きます。えこひいき気味で気がひけるのですが、やはり、北島選手の大活躍が他の日本選手に良い影響を与えたのではないかとさえ思ってしまいます。北島選手については、妙な思い入れがあるのですが、彼の言動はマス・メディアの格好の餌食となり、プライベートに関するゴシップなど喧伝されて、さぞや辛かったことだろうと思います。それらの喧騒を跳ね除けて、見事に「有言実行」してくれたことは天晴れ!の一言につきます。
翻って、オリンピックになぜ私たちは感動するのか?(週間!木村剛)さんのエントリで、

そういう方々の特徴は、経済学学をお勉強するのに時間をとられて、国語を履修して語彙を増やす時間がなかったせいか、自分の価値観に合わない論理は「トンデモ理論」とレッテルを貼って、重箱の隅をつつきながらマスターベーションすることに余念がないんですね。「Aという状況になったら困るから、Bという政策を実施しましょう」と主張しているのに、「Aになると言っていたのに、なっていないではないか」と批判するのですから、経済学学をお勉強しすぎて、読解力という国語の基礎ができていないのでしょう(Bという政策を実施して、Aという状況を回避したのですから、それで良いんではないですかねぇ)。

とあります。
私も、自分の価値基準や思考パターンでどうしても物事を考える傾向にあるので、上記コメントは非常に耳が痛いところであります。評論家(批評家)の方々は、確かに「重箱の隅をつつく」テクニックには、非常に長けたものがありますので、そういった点では「存在意義」はあるのかも知れません。いわゆる、「コンサルタント」という職種も同様です。それでも、その道何十年のプロの方々には敵うべくもありません。「コンサルタント」は、小手先の技術(「Logical Thinking」)のみで煙にまくことも可能なので、煙にまくこともできますが、「当事者」ではないので、敵うべくもありません。「当事者」が目に見える形で結果を出されると、「評論家(批評家)」はただ黙り込むしかありませんね。